
https://www.janm.org/sites/default/files/2021-02/janm-japanese-lesson-plan.pdf
移民と排日運動期(1900年~1936年)
当時の日系人移民は,いつかはお金をたくさんためて日本へ帰ることを夢見ていたため,低賃金でも懸命に働きました。しかし,アメリカ本土ではあまりにも短い期間に日本人移民が殺到したため,仕事を奪われることを心配したアメリカ人による日本人排斥の動きが強まりました。
そのため,日本人移民はかつて中国人移民が経験したようなひどい人種差別と戦わなければなりませんでした。
日本人は法律で「帰化不能外国人」と規定され,結局1952年までアメリカに帰化することができませんでした。
1900年,日本政府はアメリカへの移民を一時禁止しましたが,日本人移民に対する排斥気運が高まり,サンフランシスコでは市民
大会で日本人労働者排斥が決議され,その後ますます日本人への排斥運動が激しくなりました。1906年,サンフランシスコ教育委員会では東洋人学童排斥命令が出され,日系人児童は隔離された東洋人学校へ通うことを強制されました。
1907年の「紳士協定」をうけて,日本政府は1908年からアメリカへの日本人移民を制限しました。
アメリカ本土在住の一世の多くは,1910年頃までに何らかの形で農業に携わるようになり,その大部分がカリフォルニア州に集まっていました。彼らは農民として定住するにつれ,日本人農業組合を組織するなど,様々な形で連携することで,アメリカ西部の農業開発に大きな貢献をしました。
しかし,日系移民の農業の発展とともに,白人の反日感情も高まってきました。さらに,1913年にはカリフォルニア州を初めとし,その後数年してワシントン州やオレゴン州など九つの州で,実質的に日系人の土地所有を禁止する「外国人土地法」が成立し,日本人移民たちはアメリカ生まれの二世の子ども(アメリカ国籍)の名義で土地を所有しなければならなくなりました。
当時アメリカでは,異人種間の結婚は法律で認められていなかったため,日本に帰って結婚相手を見つけるだけの資金がない男性は,日本にいる親戚を通して写真を交換することで結婚相手を見つけました。
これが「写真花嫁」と呼ばれるシステムで,「写真花嫁」の渡米を日本政府が禁止するまで,1900年代後半から1920年の間に多くの「写真花嫁」が渡米し,結婚して家庭を築き,それにより日系コミュニティの発展が促されたのです。やがてアメリカ生まれの二世が増えるとコミュニティも大きくなり,さまざまな社会活動を提供するようになり,二世に日本語と日本文化を教えるため,日本語学校も作られました。
子どもたちは放課後,様々なクラブ活動やスポーツを楽しんで,毎日を過ごしたのです。日系人は移民初期より,様々な人種差別に直面しましたが,1920年代に入り,排日運動の高まりの中で,ついに1924年,「排日移民法」が成立し,日本からの移住が完全に禁止されました。こうした動きに対応して日系人は県人会や各組織をつくりました。
1906年、サンフランシスコで、公立学校への日本人学童の入学が拒否され、他のアジア人と同じ学校に通学すべしという市条例が制定された。これに対して日本国内でも激しい反発が起こり、アメリカに対する非難が強まった。ようやくローズヴェルト大統領の市当局への説得により収束した。1908年、高平・ルート協定(駐米公使高平小五郎と国務大臣ルート間の紳士協定)で日本はアメリカへの移民を自主規制するなどの妥協したが、なおも問題は継続した。
その後、カリフォルニアでは日系人の土地所有、賃貸が増加し、1913年にはカリフォルニア州議会が排日土地法を制定し、日系1世は土地所有が出来なくなった。このときも日本国内で激しい反米運動が起き、日米戦うべしと言った演説も聞かれた。<細谷千博『日本外交の軌跡』1993 NHKブックス p.40>
1913年のカリフォルニアにおける排日土地法制定など、日本人移民に対する排除、差別の動きがますます強まっていた。第一次世界大戦が勃発すると、日本は中国大陸や太平洋のドイツ権益を奪おうとして、日英同盟を利用して参戦、連合国の一員となった。それによって戦後の1919年1月から始まったパリ講和会議に主要五大国(アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、日本)の一つとして参加することになった。
この時、日本の現実的な要求は山東省で獲得したドイツ権益の継承を軸に中国に対して認めさせた二十一カ条の要求を列強にも認めさせることであったが、もう一つ、国内世論で盛り上がっていたアメリカでの日本人移民排斥反対の声をうけ、ウィルソンアメリカ大統領が提案した国際連盟規約に人種差別撤廃条項を入れよ、という要求を提出した。
この提案は中国代表も賛成するなど、一定の支持があったが、肝心のアメリカは国内の黒人差別問題を刺激することを恐れ、またイギリスは連邦内の自治国オーストラリアが白豪主義をとっていることなどから日本案に反対した。
日本も朝鮮や台湾での差別的な植民地支配をしていることもあって、その提案は世界的な輿論となることはなく、最終的には日本代表は、山東問題で日本の要求が通ることと引き換えに、自ら提案を引き下げた。
さらに第一次世界大戦後は、移民制限の動きが強まり、1924年の「移民法」で日本からの移民は全面的に禁止されることとなる。
https://www.y-history.net/appendix/wh1403-052.html
底辺は同じとこに行き着く・・・
ジャップなんて国外追放でええぞ
これでも行くやつは異常者だけだよ
我々に意思表示の重要性を教えてくれている
アメリカ「でもお前も中国人差別してんじゃん」
ジャップ「……」
つまりナイジェリア人>>>>>>>>>>>>>>JAPやぞ
西洋東洋どちらにも友好国がいない
とはいえ結局問題は前者が今も昔も横行してることなんだけどさ
給料高いつっても向こうで家やら物価高いてなったら同じと思うけど
中国人移民禁止をやってた時代もあったし、メキシコ移民禁止の時もあった
一方日本は今更外国人奴隷を連行しようとしてる、だから批判される
強制連行は17世紀の話だろ🥺
インドやアフリカ又は中東や南米からきてもらう大量の移民を歓迎するからな


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